八木倫夫弁護士を偲んで
2024.05.10以下の記載は、弁護団長の村松昭夫弁護士が大阪弁護士会の会報2024年4月号に「追悼の辞」として寄稿したものです。
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同僚の死にこれほどショックを受けたことはない。
2023年11月22日、大阪アスベスト弁護団の中心メンバー八木倫夫弁護士が帰らぬ人となった。
半年ぐらい前に深刻な病に侵されていることを知らされ、その後も闘病生活の様子などを度々聞いていたとはいえ、彼が自らの生命力と選択した治療方針に確信をもって治療に専念していたこともあり、半ば祈るような気持ちで回復を期待していた。
よもや、こんなに早く見送ることになるとは。寄せ書きを送るなど最後まで彼の生還を願い続けてきた弁護団全員も同じ思いである。
彼は、45期で当初は検事に任官し、東京地検特捜部に在籍したこともあったが、2003年3月に弁護士登録、2年後に独立して緑風法律事務所を開設した。
挨拶文には「事務所名を「緑風(りょくふう)法律事務所」としたのは、検察時代から環境保護に関わる仕事をしたいと考えていたこと、純粋に自然が好きであること、そして社会の矛盾に憤り、人の感情に翻弄されつつも、心は野山を吹き抜ける風のように爽やかでありたいとの願いを込めてのことです」と記している。その後の18年間は、熱い思いと志の通り、獅子奮迅の奮闘を続けながら爽やかに駆け抜けていった弁護士人生ではなかったかと思う。
彼とは、2005年秋の弁護団の結成当初から、泉南アスベスト国賠訴訟や建設アスベスト訴訟など文字通り苦楽を共にしてきた。彼は、飄々とし、言動も独特のものがあったことから、時に誤解される面もあったが、膨大な情報公開資料などを丹念に調査・分析し、結果を迅速かつ的確に書面化するなど、その能力は卓越したものであった。
二つのエピソードを紹介したい。
泉南アスベスト国賠訴訟における国との最大の攻防は、アスベスト粉じんを発生源から除去する局所排気装置設置の技術的可能性をめぐってであった。国はこの分野の第一人者N氏を証人に立ててきた。彼は、その反対尋問の中心であった。豊富な論文や調査資料を駆使してのN証人との一歩も引けを取らない論戦は圧巻そのものであった。最後の大阪高裁での反対尋問の終了時には、N証人がわざわざ原告席の彼のところまで歩み寄り、双方が労いの挨拶を交わし合ったほどである。この攻防戦が、被害者救済に大きく舵を切った2014年10月の最高裁判決に繋がったことは間違いない。
もう一つは、建設アスベスト訴訟における建材メーカー責任の追及である。最大の課題は、被害者らが長期間に亘って多くの建設現場で働いていたことから、どの建材メーカーのどんな石綿建材が病気発症の主要な原因になったのかをどう主張立証していくかという点であった。当初は暗中模索が続き、彼とはいろんな議論を積み重ね、最終的には、彼が中心になって、収集した膨大なシェア資料を読み込み分析し、各石綿建材ごとのシェアを明らかにし、それを基礎にして各被害者ごとに病気発症の主要な原因になった石綿建材、建材メーカーを特定していった。そうした粘り強い主張立証活動が建材メーカー責任を認めた2021年5月の最高裁判決に結実した。
彼のアスベスト被害救済に果たした貢献は第一級であり、それ故、突然の訃報にはアスベスト訴訟に取り組む全国各地の弁護団からも多数の追悼メッセージが寄せられた。
同時に、彼には、仕事面での厳しさとともに、時間や場所をよく間違える、大金を電車の中に置き忘れたとか、どこか抜けたところやある意味茶目っ気たっぷりの一面もあった。そんなところも弁護団員に親しまれた所以でもあったと思う。
しかし、彼の死は、あまりにも早過ぎ痛恨である。今は、ただただ彼に感謝し、その遺志を継いでいくしかないと決意している。
八木さん、安らかにお眠りください。
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